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鬼の食事 |石垣りんの詩1

詩人の石垣りんは私にとって大切な人。
彼女は自虐でも自己否定でもなく
“鬼であること”を“人間はそういうもの”だと受け入れた人だと思う。
鬼として生きていく、そう決意した人。

 

その言葉には、平凡だろうが過酷だろうが、目の前にある現実を“味わい尽くす”挑戦のイメージがある。たかが現実に自分の心を支配させたりしない。そんな挑戦。

 

『鬼の食事』  石垣りん

 

泣いていた者も目をあげた。
泣かないでいた者も目を据えた。

 

ひらかれた扉の奥で
火は
矩形にしなだれ落ちる
一瞬の花火だった。

 

行年四十三才
男子。

 

お待たせいたしました、
と言った。

 

火の消えた暗闇の奥から
おんぼうが出てきて
火照る白い骨をひろげた。

 

たしかにみんな、
待っていたのだ。

 

会葬者は物を食う手つきで
箸を取り上げた。

 

礼装していなければ
格好のつくことではなかった。

 

ドキリとする映像。
たしかにあの一瞬、その場の誰もが骨に群がる光景は食事風景にも見える。

しかも
「たしかにみんな、 / 待っていたのだ」
と書かれる。

 

一人の人間が死を迎えるまでのあの時間。
死が訪れてなお、火葬場でのあの時間。
あのなんとも言いようのない“待つ時間“を知っている人には堪える。

 

そもそも葬儀の“箸上げ”は、火葬後に遺族が箸で故人の骨を拾う風習。
故人が無事に三途の川を渡れるよう、“橋を渡す”という意味が込められている。
「箸」を使うのは「橋」と音が同じだから。

 

それでもやはり、どこまでも「箸」は喰う道具。

 

古来の日本で箸は、食事よりも先に
“祭事用”として神に食べ物をお供えするために使われていた。

その後中国の食文化を取り入れたことで食事用の箸が普及したと言われている。

 

神のための箸を自分の口に運ぶ道具にした不遜な魂が人間だということ。
1400年前の飛鳥時代から人間は我が口に食べ物を運ぶことが一大事。

人間は喰わずには生きていけない命なのだ。

 

 

石垣りん(1920-2004)

詩人。
家族を支えるため十四歳で銀行に就職。定年を迎えるまで働きながら詩を発表し続けた。初詩集は三十九歳『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』(1959年刊)