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うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間② 

UnsplashIvars Krutainisが撮影した写真

 

今日はとても個人的な「うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間」の感想について。

作者と本の紹介はこちらから
うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間 - たこイカそら豆ブログ

 

私はヤングケアラーだった。
私が小学生の時にはもう死にたがっていた母は、私が大学生の時、50歳の誕生日に自死した。
20年近く彼女を止め続けた私は、その頃にはもう疲れ果てていて「そうか」としか思わなかった。
心身ともに患っていた彼女の正式な病名を、私は今も知らないけど、長くうつ状態だったのは確かだと思う。

 

納得できたことはない。
死にたいと言い続ける人の傍で生きていくのは疲れる。
「仕方ない」と言うのはそう言うしかなかったから。
傷ついているのは私も同じだと思っていた。

本人も私も無力だった。
そんな時、「これは病気のせい…」だと言ってみることに何の意味がある?

 

うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』を読んで強く感じたのは、

「ああ、こんなにも生きていたい、棋士に戻りたい、将棋を指したいと望む人でも死にたがるんだ」ということ。

死にたいと思うのは、生きることを憎んでいるからではなく、
周りの人間に不満があるからでもなく、
そして、
周りのことなど「どうでも良い」と“考えて”いるからでもなかったのかもしれない。

 

そこには「なにも」無かったのかもしれない。
気持ちも、思いも、思考も、
なんにも無かったんじゃないか?

死にたがる彼女の言葉に意味などなかった。だから私も意味など求めてはいけなかったのだ。


元々意味のない言葉の意味を、こちらが勝手に考えて考えて、考えて。
期待したり、失望して苛立ったり、いちいち真に受けていたんだと思う。

小学生の私にそれを求めるのは酷だけど、
それでも
“病”に振り回されている最中の、溺れて沈みかけている人間の叫びに、
「私への思いやり」を求めるのは所詮無理な相談なのだ。

 

自然とそう考えることができたのは、先崎棋士の描写が正直でリアルだったから。
私にもうつだった時期はあって、その時の記憶とも重なった。

 

そして、もう一つ、他人事だから。

友だちの親子喧嘩も、同僚の夫婦喧嘩も、隣家の相続問題も、冷静に判断、解決できるのは傍目八目だから。

当事者でいる限り見えないことばかり。
でも離れたところから見たとき、
うつ病と闘う人間を、私は素直にすごいと思った。
応援したいと思った。
労いたくなった。

 

それで、母に思いを寄せることができた気がした。
母は私を愛さなかったかもしれない、そんな余裕はなかったから。
だからきっと、私は愛されなかった、それが事実なんだろう。

 

でも彼女はもういないのだ。
嘘だっていい、なにが本当で、偽りかなんてもう誰にもわからない。
何を想像したところで、もしかしたらそれが本当かもしれない。
なんだっていい、今はもう、私の好きなように彼女を思い出せばいい。

母のためではなく、私のためにそう思えた。