
UnsplashのRyan Loughlinが撮影した写真
あらすじ・感想
『東京奇譚集』は村上春樹による5つの短編からなる短編集。
奇譚集というだけあって、どれも不思議な話。でもおどろおどろしくはない。
そこに描かれているのは、日常の中にひっそりと紛れ込んだ“不思議な出来事”とその出来事があぶりだす、自らの影や忘れ得ぬ縁のようなものかもしれない。
作者の語り
最初の作品は『偶然の旅人』。
この作品では語り手である作者(村上春樹)が冒頭に顔を見せる。そして次のように語る。
どうして僕がここに顔を出したかというと、過去に僕の身に起こったいくつかの「不思議な出来事」について、じかに語っておいた方が良いだろうと思ったからだ。
(中略)
どちらのケースも、まったく内容的にはとるに足りない出来事である。それが起こったことによって、人生の流れに変化がもたらされたわけでもない。僕はただ、ある種の不思議さに打たれるだけだ。こういうことが実際に起こるんだ、と。
この“作者の語り“をどう読むかに正解はないと思うけれど(もちろんこの部分を含めてすべてが“作品“なのは大前提)、私には大切なメッセージに思える。
それはつまり「こういうことが実際に起こるんだ」という意識の共有。
作家が「小説」を書くのだから、出来上がった作品が緻密に練り上げられたフィクションなのは間違いない。
けれど、“こういことが起こりうる世界“に生きているのだということを、読み手にはひとまず受け入れてほしいのではないか。
オカルト的な事象や占い、あるいは超能力や霊魂や虫の知らせ、こういうものに興味関心があるから書くのではない。まして否定したいわけでもない。
ただ、ある種の心の動きはそういった“不思議な出来事”に導かれた結果だったり、あるいは逆に“不思議な出来事”を導く原因になったりする。
だから、そういった心の動きを表現するためにはどうしても
人工物としての不思議さではなく、偶然出くわした不思議さ、もっと言えば、そういう“不思議な出来事も存在し得る”という寛容さが必要なのだと。
作者は続ける。
ただそれらの出来事をとりあえずあるがままに受け入れて、あとはごく普通に生きているだけだ。ただぼんやり、「そいういうこともあるんだ」とか「ジャズの神様みたいなのがいるのかもしれないな」みたいなことを思って。
ニュートラルな心持ちで不思議な出来事にまつわる不思議な話に耳を傾けるための導入。それがこの冒頭の語りであるように思う。
ハナレイ・ベイ
2つ目の話は『ハナレイ・ベイ』。
初めて読んだときからずっと、心に残って離れない話。
サチの息子は十九歳のときに、ハナレイ湾で大きな鮫に襲われて死んだ。正確に言えば、食い殺されたわけではない。一人で沖に出てサーフィンをしているときに、鮫に右脚を食いちぎられ、そのショックで溺れ死んだのだ。
主人公はシングルマザーのサチ。
ホノルルの日本領事館からの“知らせ“を受け、母親である彼女が遺体確認のために現地に向かうところから物語は始まる。
そしてもう元には戻らない息子の体を骨にして日本に持ち帰る。その後、彼女は毎年息子の死んだ地を訪れ、その生活を10年に渡って続けることになる。
ハナレイ・ベイは私にとって“ままならなさ“の物語だ。
ままならないのは、自然であり、戦争であり、夫や息子、才能、そして自分自身の心。
サチは息子を愛している、しかし息子の命は鮫に奪われた。
その関係が良好だったとは言えない息子とのエピソードは、息子とのあらゆる可能性を失った、残された側のやるせなさを掻き立てる。
終わってしまった関係には、もう続きは存在しないのだ。
10年が過ぎて、彼女はハナレイの地で二人の日本人の若者と出会う。
彼らは10年の間に彼女が積み上げた息子との時間を、10年の間とどまり続けた彼女の時間を軽々と踏み越えていく。
彼女はまだ生きていて、彼女自身の物語は続いていた。そのことが思い出される瞬間。
ままならない関係、ままならない事実、ままならない気持ち、それらは、抱える人間の内的な時間を止めてしまうことがある。止まっていることに気づかないままで。
でも確実に外的な時間は流れ続けている。
最後の一行を読み終わってなお、
私には主人公の気持ちがつかめないでいる。もしかしたら彼女自身にもわからないのかもしれない。
ただ、彼女が毎年ハナレイ・ベイを訪れる理由は、そこに息子がいるからだろうと考える。
彼女自身が持ち帰った遺骨がただの骨だとしても、あの場所はただの場所ではない。
いつか“ままならなさのすべて”を受け入れることができたとき、彼女の時間がどこかに繋がることを私は願っている。